Gモト|ビハインド・ザ・ゲート「小島庸平」

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Gモト新企画、レースを支える人達の情熱に迫る「ビハインド・ザ・ゲート」。記念すべき第1回目は、2006年IA2, 2015年IA1クラスチャンピオン小島庸平選手にご登場いただきます。小島選手は現在、モトクロス業界の底辺からトップカテゴリーまでを網羅し業界を盛り上げています。

全日本モトクロスではホンダサテライトトップチームとして活動する「ベルズレーシング」のプレイングマネージャー。モータースポーツ都市宣言されている鈴鹿市生まれ鈴鹿市育ち。前回ご登場いただいたパドックウォークで活動の主旨や経緯をお話しいただきました。

今回は小島選手が「ベルズレーシング」を立ち上げた経緯に迫ります。リアルな現場での背景や経緯、出会いをお届け。

 

ベルズレーシングを立ち上げた経緯は「まさにスタートアップ」だと思います。今回はその背景や経緯、出会いを教えてください。



この話は公の場では多分、どこにも話をしていないかなぁ…。
私は2017年スズキファクトリーの参戦休止まで12シーズン、スズキファクトリーライダーとして走っていました。2006年のファクトリーライダー初年度にIA2クラスチャンピオン、2015年IA1クラスチャンピオンを獲得、2009年MXGPフル参戦しましたが、最高順位は12位でした。

「本当はもっと世界で戦える強いライダーになりたかった。」というのが本音です。皆さんは、全日本の両クラスチャンピオン獲得しているので、不思議に思うかもしれませんが、これが自分の気持ちの根底にあってチャンピオンよりも「強いライダーになりたい」という事が当時の目標になっていました。今現在、形は違いますが、若い日本人ライダーを強くしたい、そこへの情熱は変わらないです。

自分は小さい頃から走るセンスが無かったからこそ「強いライダーになりたい」と思い、必死になって努力してきました。
誰でも努力すれば日本のチャンピオンになるチャンスは必ずあるはずです。

 



俺はセンスが無かったけど「強いライダーになりたい」と思えるようになった。

父親がRSC(現在のHRC前身)のメカニックでした。その影響もありモトクロスを始めました。
センスが無かった当時の私は、兄貴(2010年IA2クラスチャンピオン小島太久摩選手)のオマケ的にモトクロスを楽しんでいました。
兄貴は本格的にレース活動、成績も良かった。
だからと言って、兄貴と戦うとか羨ましいとかもなく、家族がモトクロスをやってるから私もやっていたというだけで、プロライダーになる! なんていう気持ちもなかった。
そもそも速くなかったし。笑

モトクロスを家族で続けていく中で、父がアールエスタイチの吉村さんと昔からの知り合いという事もあり、まずはマウンテンライダーズへ入門し、やがてSRMへと昇格しました。
チームの環境と監督の宮内隆行さん(1991年MFJ全日本モトクロス250ccクラ スチャンピオン)のおかげで成績も向上していきました。この環境があった事で、私のモトクロス人生は大きく変わったと思います。

先ほども話しましたが、兄貴がやっていたからというおまけの流れで走っていました。しかし実際には負けず嫌いで勝つ事は好きだったんです。

本来であれば今でも「チャンピオンで強いライダーになりたい!」という理想に変わりはないのですが、ライダーには年齢的にタイムリミットがあります。自分ではもう出来ないとかこれ以上、強くなれないなどは言いたくないのですが・・・笑。現実を受け入れて、日々葛藤していました。

しかし、自分がレースで得た経験を後世に残す事がこれからは1番大事だ! と思い、それを形にしたのがベルズレーシングです。

 

強いライダーになるために、心がけてきた

速いライダーでは無かったので、強いライダーになるために、死に物狂いでやってきました。
現在のライダーにはわからないかもしれませんが、他のライダーの5倍6倍と練習・トレーニングをやってきたので、チャンピオンにもなれたし、やれる事は全てやりきったと思えます。

 

2018年よりスズキファクトリー活動休止


2017年の夏にスズキファクトリー活動休止と聞いた際、自分の選択肢としては「辞める」、「引退」が頭 に浮かびました。
その際、1番最初に相談させて頂いたのが、私をここまで育ててくれたアールエスタイチ吉村さんでした。

吉村さんからは「センスは無かったけど全日本チャンピオンにもなったし、ここまでよくがんばったな。」 と仰っていただきました。吉村さんに、そう言って頂いた時、ライダーとしての気持ちが「プツン」と切れてしまいました。

これまで頑張ってきたのが報われた気がしたので。2018年以降は自分の気持ちの中だけで、「現役を引退」しています。現在は、2017年までとは違う「小島 庸平」として全日本モトクロス選手権を走っています。

 

キーパーソンとの出会い

2015年に鈴鹿と・き・め・き モータースポーツ大使に就任しました。
それまでお互いに存在を認識 はしていましたが、当時モリワキエンジニアリングに在籍していた森脇緑さん(現 MIE RACING)と初めてお会いました。
その後は鈴鹿市の中でも地元が一緒という事もあり気にかけていただき、よく食事に行ったりモータースポーツの話をする機会が増えました。

2017年、スズキファクトリー活動休止の一報を聞いてから引退すると相談した際、緑さんから 「えっ、なんで引退するの?」と一言。緑さんは「もうレースに出たくないの? 嫌いになったの?」。
そうではないと答えた私に「では自分でチームを作れば良いんじゃない?」っとまったく違う角度で「モトクロスが好きなんでしょ? やれば良いじゃない」という単純明快な言葉が飛んできて衝撃を受けました。笑

スズキさんもファクトリー活動はもうないし… と、迷っていたところに「庸平は経験もあるし実績もある。私も協力するからチーム始めてみたら? 自分が走るために、そして若手を育成するために」と言っていただきました。
その話があってから、ものすごく考えました。

でも、やっぱり自分は「強いライダー」になりたかったので、他メーカーのファクトリーを含め、環境を模索してみましたが、自分のシートはどこにもありませんでした。

そして、「自分でチームを立ち上げよう」ということになり、今があります。 
私がベルズレーシングを立ち上げて、運営していますが「森脇緑さんという存在」が居なかったら絶対にこのチームは始まっていません。

 

 

ベルズレーシングの背景、小島選手自身の背景、想い。キーパーソンとの出会い。現在、ベルズレーシングは評価され実績として社会に貢献している。
お話を伺って納得。

また、GモトがGSPEED-TOKYOが多大な影響を受けている、MIE RACING 森脇緑さんの活動を肌で感じました。
「やっぱりそうなんだ!」というお話が小島選手から聞け、1ファンとして感動。
今後も現状のコンセプトで活動しようとあらためて思いました。

vol. 2では、ベルズレーシングが目指すレース活動について「強いライダーになりたい」、「強いライダーではなかった」という小島選手の言葉を中心に深堀りしてお届けする予定です。

現在の全日本モトクロスで「世界に1番近い」チーム運営をされている小島選手の情熱、想いはすっごく楽しい。
取材へのご協力ありがとうございました。

 

ビハインド・ザ・ゲート – The Newsmoto

GSPEED-TOKYO


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